こんにちは ジーンズリペア&クラフト hands-onです。
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社会人編ですが、第3章 10:24からのスタートです!
旧ブログ(gooブログ)が閉鎖するという事になりまして、、、涙
ハンズオンの原点だった、このブログは残したい!
というわけで、新ブログにてリライトしたいと思います。
※移転前の工房(和室の一角)でミシン作業している時です。
この時、37歳位かな?
それでは、本編です!
↓
1999年 ジーンズ&カジュアル ライトオンに入社します。
最初の勤務地は埼玉県!
今まで、古着ばかり見てきたので新品のジーンズを扱うのは新鮮でした。
「ジーンズの品番全部覚えてやろう」って気持ちで、やる気満々です!
業務として、ジーンズの裾上げ もマスターしないといけません。
最初はヨレヨレでねじれて、何とか縫い合わせたという感じでした。
3ヶ月位経った頃に 定番のデニム は縫えるようになってきました。
数をこなすと段々腕を上げて、チノパンツ(針穴が残るので、縫い直しが出来ない)
ストレッチ素材(引っ張ると波を打つので、難しい)色々出来るようになりました。
そして休みの日は東京の渋谷、原宿、高円寺の有名古着ショップ巡りをしていました。
古着界のカリスマ 原宿のマービンスのオーナーHさんは
僕の憧れで、芸能人を見るような感じで見ていました。
僕もいつかこんな ビンテージショップのオーナー になりたい
と想いを募らせていました。
職場であるライトオンでもビンテージ系の商品は僕にとって特別な存在でした。
リーバイスのビンテージ復刻ジーンズの販売には自然と力が入っていました。
お客様に「あなたに接客されるとビンテージモデル穿きたくなって、買ってしまうよ」
と良く言われていました。
常連さんの中には、リーバイスのビンテージ復刻 を全モデル買ってくれた方もいました。
レディースやキッズ、小物も扱ってましたので、もちろんそちらの商品も覚えましたよ。
2年目は大分県へ転勤
しかも新店オープンでした。
店長補佐として スタッフの採用、什器の搬入、売り場作り、イベントの段取り
色々させて頂きました。
そこから3ヶ月後には晴れて店長に昇格
いきなりの管理職です、、、汗
商品知識ばかり覚えてきた 私ににとって大変でしたけど
将来役に立つと思ってパソコンでエクセルを覚えたり
数字を管理したりと、頑張っていました。
売上も順調に伸ばして行きました。
お店が田舎だったので近くに古着屋が無かったのが辛かったですね、、、涙
4年目には福岡県天神(福岡市の中心地)へ転勤
売上規模も上がり スタッフの数も20人以上、頭パンパンで仕事していました。
天神の店にはチェーンステッチの裾上げミシンがあり
特別にチェーンステッチ仕上げを受けていました。
そこでチェーンステッチミシンの使い方を覚えました。
また、休みの日は古着屋巡りの日々、古着ビンテージを集めておりました。
地方都市の中心部にあった事もあり、お店のTVの取材も何回か有りました。
TVの出演など、新しい経験をさせて頂きました。
5年目は福岡市博多へ転勤
店長職にもボチボチ慣れてきた時でした。
この時28歳です。
30歳までには独立の形にしたいな
という気持ちで頑張ってきたので
この店を最後にしようという気持ちでした。
今までの経験を生かした、古着ミックスのセレクトショップをしたいという気持ちでした。
2004年 そして、5年間勤めたライトオンを退職して独立の為
実家のある長崎県佐世保市へ一度帰りました。
佐世保市を選んだ理由は実家に住める(生活費が抑えられる)
古着屋が少ない(競合相手が少ない)
地元の友達がいる(寂しくない)
ここから出店計画を立てるのですが、
資金の問題があり、借金するかしないかで、迷ったあげく
もう一度お金を貯めようという決断をしました。
2005年 貯金と物件探しの為に、地元の中小企業に再就職しました。
慣れない仕事を一生懸命、1年半やっていました。
貯金もコツコツ増えていきました。
ジーンズ業界を離れている間、客観的に自分を見つめていました。
「このまま、お金貯めてお店出しても、継続して続ける事が出来るのか?」
という疑問でした。
もっと掘り下げてジーンズを学ばないと、
他社との差別化が出来ないんじゃないかと思っていました。
要するに成功する自信が無くて、迷っていたんです。
その時、親戚から1通の電話が、、、
リーバイスジャパンで働いている親戚からでした。
今、リーバイスが社員の中途採用を募集している!
健太郎君だったら、いけるんじゃない!
というお誘いでした。
独立を迷っている時に、こんなチャンスが到来するなんて、、、
これは中途採用試験を受けてみよう!
という事で受けましたが、、、
結果は不採用、、、涙
(最終面接まで行ったのですが、、、)
最終面接には自信があったので、不採用には落ち込みましたが、、、
結果を待つ間、デニム業界に戻れるかもしれない!という
ワクワク感に満ち溢れている自分がいました。
よし、もう一度デニム業界で学び直そう。
雑誌でしか知らなかった、ジーンズの作りの現場で働きたい!
という気持ちが熱くなってきました、、、
そんな中、インターネットで色々と検索していると
岡山県のジーンズ製造工場で若い人材の募集 がされている事を知りました。
もう応募せずにはいられませんでした。
僕が応募したのはデニムの加工を専門にしている会社でした。
ジーンズ作りというと縫製がメインに考えがちなんですけど
縫製業界は歴史があり熟練の職人が多くいます。
(もちろん若い縫製職人も頑張っています)
加工が良いなと思ったのは
まだ技術が確立されていない分野で
これからの可能性を秘めている点でした。
感性を生かした物作り!
これは面白そうだと思って面接を受けて、見事受かりました。
2006年 そして、岡山県倉敷市に引っ越してきました。
まず始めに、デニムの聖地 倉敷市児島へ行ってみました。
自分の知っているジーンズメーカーが色々と立ち並ぶ中、一軒のショップを発見しました。
キャピタルという児島のデニムブランドのショップで
古い家屋を改装した味のある建物でした。
中に入ると、新しいデニムの世界観がそこにありました。
特に目を引いたのが、一点物のスペシャルでした。
これは僕の中でカルチャーショックで
タグに「工房ウラCLUB」という名前がついており、値段も5万円以上
リメイクをメチャクチャやり込んでいて、これは商品では無く、作品だと思いました。
店員さんに「これは誰が作っているの?」と聞くと
「特殊デニム部隊がいて その人達が作っています」
「若い人達が自分達の感性を生かして作ってます」
と答えてくれました。
今までのリーバイス501XXを越える新しい価値が
ここにあるような、新しい感覚を感じます。
(今でも501XXは大好きです。時間を経過してきた重みがあります)
もう一軒は 桃太郎ジーンズに行きました。
そこはデニムの生地に一番のこだわりがあって
そこのデニムは糸の染め方が日本に古くから伝わる本藍を使った
「かせ染め」という手作業でやった物でした。
アメリカでは染めはオートメーション化されていて
ロープ染色という機械染めを行っていたんですけど
(近年は日本にも高い技術のロープ染色があります。)
日本には古くからの伝統があり
それをジーンズに落とし込んで新しい物作りをしていました。
色落ちが中々しない、じわじわ落ちて深みのある感じは
今までのジーンズの色落ちとは異なる魅力を感じました。
日本の伝統とアメリカの合理的なファッションの融合とでも言いましょうか。
そこにも若いスタッフの方が居て
「ジーンズが好きでこの地にやってきたと言われていました」
岡山に来て間違いは無かったと感じた瞬間でもありました。
それから岡山でデニム加工工場H社での勤務が始まります。
H社は設立してまだ数年の若い会社でした。
社長も若く、従業員も若い会社でした。
まさしく、若い感性に囲まれた中での職場でした。
1年目は生産ラインに入って作業を行ってました。
そこで、様々な加工の手法を学び、身に付けていきました。
同じ物作りでも、縫製と加工は考え方が大きく異なります。
縫製は仕様書がきっちりしており、全てに細かい指示があります。
(ミリ単位の指示)とにかく正確さが求められる仕事です。
加工の仕様書はアバウトです。
もちろん見本はあります。指示は「こんな感じ、あんな感じ」です。
これをニュアンスと呼んでいます。
データで測ることの出来ない
(データはあるんですがその通りにしても上手く行かない)
感覚的な世界なんです。
インディコ染め、藍染めも同じ感覚かもしれません。
一番難易度の高い仕事が色落とし加工です。
薬品を使って手作業で色を落としていきます。
薬品の濃度、気温、湿度、によって色の落ち方が異なります。
一本、一本のジーンズも微妙に反応が異なります。
まるでジーンズと対話するかのような仕事です。
まっさらのジーンズに絵を書くように色を落としていき、
穿きこんだビンテージジーンズのような
迫力のある物を作っていました。
ヒゲの一本、一本の微妙な濃淡差
グラデーションはまさしくアートだと感じました。
中国でも同じ手法の加工はありますが、ここまでの繊細な作業は出来ません。
メイドインJAPANのなせる技があります。
1点でしたら時間をかければ、良いものは出来ます。
しかし同じ感覚で同じ物を作る事が非常に難しいです。
一日、数本しか作れない作業を黙々と続けなければいけません。
2年目からは営業職も始めました。
私は職人希望でしたが、会社は営業を必要としていました。
それからは毎日児島と会社の往復の日々が続きます。
児島の様々な工場を出入りしては打ち合わせをして
帰ってからサンプル作り、翌日納品みたいな毎日。
ジーンズ業界の有名な方々と一緒に仕事を行う事が出来るのは、本当に楽しかったです。
ジーンズ好きにとっては何事にも代え難い貴重な経験を積み重ねていきました。
物作りも出来る営業が目標だったので、毎日自主的に遅くまで加工開発やったり
新しいヒゲの型彫ったり、好きな事に没頭する毎日でした。
そんな中、縫製工場のTさんと仲良くなり
私が「自分のジーンズを1本縫ってみたいから教えて欲しい」
と情熱を伝えると
Tさんは快く了解してくれました。
普段は忙しくて時間が無かったので
年末年始の連休を使って裁断と縫製、全て教えてくれました。
Tさんは自宅でジーンズ1本縫えるだけの 専用ミシン を全て揃えていました。
一工程ずつ僕はメモを取りながら、忘れないように作業を行いました。
そして丸2日かけて自分のジーンズを縫製しました。
これは今でも大切に穿いています。
やっぱり愛着あります。じっくり穿いて大切に育てたい。
Tさんはそれ以来、ぼくが縫製で困った時はアドバイスをくれます。
3年目は完全に物作りに没頭した年でした。
今までの経験やアイデアがどんどん形になっていき、結果が出せた時だと思います。
その中でも、物作りの合同展示会「JFWジャパンクリエーション」
に出店出来た事はとても貴重な経験でした。
加工用のジーンズ作りから本格的に行いました。
生地の選定は、こだわりのセルビッチ使いではなく、定番の生地にしました。
加工テクニック次第で良く魅せる事が可能なのを証明したかったのが理由です。
縫製仕様は定番のリーバイス501の66モデル仕様でベーシック感を出しました。
加工モデルの参考にした資料は当時業界で話題になった
「DENIM LEGENDS」世界限定2500冊
一冊 20万円以上の超高級アルバム。
博物館級の歴代ビンテージデニムが盛り沢山載っています。
合同展なんで目立たないと、お客さんは足を止めてくれない。
中途半端な物を作っても意味が無い。
トコトンやりきってみようと気持ちで、会社一丸となって製作しました。
通常業務+展示会の作品作りで、毎日夜遅くまで残っての作業。
展示会締め切り前日もギリギリまで粘って作業を行いました。
お蔭様でJFWは大成功し、その当時の繊研新聞にも取り上げて頂きました。
来場されたお客様にも好評でそこから新規の仕事も増やす事が出来ました。
その後もサンプル作成業務を行っていきますが、工場勤務の為、
量産出来る物作りというのが前提になってきます。
もっとこだわりたいけど、量産するにはこれ以上は出来ないという
ジレンマが大きくなっていきます。
やっぱり、自分で自分の納得出来る物を生産したい!という気持ちが強くなっていきます。
以前から知人、友人、お客さんの私物などはリペア、リメイクを個人的に行っていました。
腕が上がってくると、依頼も増えていきました。
量産品をやるときと異なった、個人への一本を仕上げたときに強い達成感がありました。
「自分で生産したものを消費者へ直接販売したい。」という気持ちが強くなってきました。
そしてこの個人事業でのジーンズリペア&リメイク業を始める事を思いつきました。
2010年 9月に4年半で岡山のジーンズ加工工場H社は退社いたしました。
社長の寛大なお気持ちのおかげで
辞めた後も工場の設備の使用を認めて頂きました。
工場の設備がないと出来ない特殊な作業はたくさんあります。
私にとって感謝すべき事でした
ありがとうございます!
2011年 1月 自宅工房にて
ジーンズリペア&リメイクhands-on 開始
只今、ホームページ製作中
ホームページよりオーダー受付の予定。
※現在リメイクは行っておりません
・当店のウェブサイトをまとめたリンク集になります。
リペアのご依頼や商品のご購入などは、こちらからお願い致します。
↓
https://hands-on-jeans.com/holt